第25回 私の出会った写真家たち

在りし日の緑川洋一

緑川洋一「七色の海」

白い菊に飾られた祭壇の遺影。緑川洋一さんは、穏やかな表情で今にも語りかけてくるようでした。2001年12月15日、献灯の列が続き、約800人の参列の下、本葬と、お別れの会が営まれました。会場では、緑川さんの遺影をはさんだ二つのスクリーンに、色鮮やかな数々の代表作が映し出されたのでした。瀬戸内海を多重露光でとらえた華麗なメルヘン調の作品で「色彩の魔術師」と呼ばれた緑川さんは、本葬の約1カ月前の11月14日に永眠したのでした。生前、私が緑川さんと打ち合わせして企画した「光の交響詩 緑川洋一の世界」展(朝日新聞社主催)は5会場を巡回しましたが、越年して3会場目から追悼展となったのです。

「色彩の魔術師」緑川洋一

写真機は165年前にフランスで発明されました。本来、ものを写し取る記録の道具でしか過ぎませんでした。同じ風景を捉えても写真は、絵画と決定的な違いがあります。絵画は自分の手を使って描いていくのに対し、写真はカメラを使って印画紙を感光させて作品を生み出す点です。このため限りなく似た作品があっても、写真は本質的に記録なのです。

しかし写真は、その撮影の対象や撮影方法、カメラアングルや演出、現像や焼き付け技術、完成後の加工などによって変化し、そこに表現性が加味されたのです。絵画より、瞬間を捉えることができ、リアルさも優れています。今や芸術的表現の一つとして、重要な位置を担うようになったといえます。

そこで写真家、緑川さんに話を戻します。出版社の社長を通じ紹介されたのは、亡くなる3年前でした。すでに風景写真家として定評がありましたが、万物を被写体にしたと言っても過言ではないほどでした。


緑川洋一「白い村・石灰工場にて」

戦前戦後のルポルタージュには、瀬戸内の島の石灰工場で撮った作品をはじめ、呉海軍工廠の被爆や巨大タンカー、さらには大阪の下町などがモノトーンで活写されていました。

緑川さんは1915年、岡山県の邑久町に生まれました。日大歯科医学校(現歯学部)を卒業し、岡山市内で歯科医院を開業。平日は患者の治療に専念し、週末には趣味の写真に没頭する日々が続きました。

写真雑誌などに応募し入選するごとに、医者でありながら趣味で病膏肓(こうこう)となります。カルテの横にメモを置き、診察の合間に撮影構想を練っては書き留めていました。しかし写真の頼まれ仕事をせず、気持ちの赴くまま、好きなものだけ撮ってきたのでした。

展覧会を監修していただいた写真評論家の平木収氏は「職業写真家として注文には応じないで、自分で撮りたい時に撮ったのです。緑川さんは超弩(ど)級のアマチュアに徹したのが、すばらしい作品を生む秘訣だったのでしょう」と評していました。

こうして生まれたシルエットの島や船、灯台が逆光の中に点在する一連の作品は、写真とはいえ、まるで絵画芸術を感じさせます。「色彩の魔術師」とか「光の手品師」と呼ばれる美的感覚は、天性の感性に努力が積み重なって生み出されたものでした。

私が緑川さんにお会いしたのは晩年の時期です。「ボクには持ち時間が少なくなったが、今まで培ってきた感覚やテクニックを駆使した新しいテーマのものを写しておきたいね。命あるかぎり写し続けたい」と、語っていたのが思い出されます。

対象へ温かく鋭いまなざし


影山光洋「山下、パーシバル両将軍の会見」

荻野矢慶記 「サマルカンドの人びと」

公文健太郎 「幸せと幸せの間に」

古谷千佳子 「一人追い込み漁に生きる」

写真展としては、緑川展より先に「影山光洋写真展」(朝日新聞社主催)を手がけました。朝日新聞社の先輩で1981年に73歳で他界しています。報道カメラマンとして活躍し、「山下、パーシバル会談」など、歴史の重要な節目に立ち会い数々のスクープ写真を物にしました。

庶民生活にも温かいまなざしを注ぎ、家族を素材に戦前から戦後にかけて暮らしの様子を克明に追いかけました。こうした作品は報道性だけでなく、構図やアングルなど造形作品としても研ぎ澄まされた感覚を発揮していました。

新たに私がフリーの立場で企画している写真家に萩野矢慶記さんがいます。大学卒業後、サラリーマンを経て1983年からプロに転向しました。世界の子どもと旅がテーマで、これまで51カ国を撮影取材しています。

その中で、「シルクロードのオアシス ウズベキスタン」を取り上げます。私も5度訪ねた所です。2001年に関西空港から直行便が運航していますが、まだまだ未知の国です。世界遺産に登録された建築や文化財以上に、エキゾチックな子どもたちを生き生きと伝えるコマに惹かれました。展覧会は2005年6月に大阪・京阪百貨店で開催されることになっています。

今年1月に立ち寄った東京の展示会場で知り合った大学生が今春からフリーのカメラマンとして独立しました。公文健太郎さんは大学の4年間、毎年ネパールの小さな村に足を運び、村びとたちを撮り続け、一連の作品を「幸せと幸せの間に…」にまとめ発表したのです。

「大きな水瓶を腰に抱え、水場から急な坂道を行き来する。小さな実を石ですりつぶすと、豊かな香りが漂ってくる。ミルクを延々とかき混ぜてバターを作る。生きることはそんなちいさな行為の積み重ねによって作られていくものだ」。公文さんは、村で教えられたレンズの目から、好きな写真の道を選んだのです。

もう一人、古谷千佳子さんは沖縄の久高島で会いました。華奢な身体にカメラバッグをかけ、飛び回っていたのが印象的でした。東京在住の女性写真家です。旅行で訪れた沖縄の海に虜になったそうです。美術系大学で油絵を専攻したものの、身体で吸収したものを表現したいと、写真に転向したといいます。

沖縄の海に潜るかたわら、漁師さんと知り合い素潜り漁に興味を抱き、住み込む体験もします。そんな生活と写真は『沖縄ウミンチュ 一人追い込み漁に生きる』(河出書房新社刊)に著わしています。モデルは87歳で、なお現役のウミンチュ(海人)の姿が心を打ちます。

私のお会いした写真家の一部を紹介しましたが、写真は記録以上に、魅力あふれるアートであり、芸術であると確信します。1枚の写真が発するメッセージは、見る人の受け止め方にもよりますが、限りない表現力を持っているからです。

「アートの周辺」今後とも

このエッセイは、今回で第25回を数えました。1カ月に2回ですからちょうど2年目に入ったことになります。この間、本業の仕事が重なり、海外へ行く機会もあって書き込みが厳しい時もありました。

この一年間には、私の知人らから感想や「楽しみに読んでいます」とのメールをいただき、大きな励みになりました。更新前日の入稿で、「展」の担当スタッフ泣かせになったこともありますが、どうにか穴を空けずに続けることができました。

2年目に入るに際し、タイトルとレイアウトが変更になりました。「アート」はとても難しいテーマです。私自身、研究者や専門家でも無いので「アートの周辺」といったタイトルで、思いつくままに、今後とも「白鳥流」で書き込みますので、ご愛読いただければ幸いです。

次回は「国立国際美術館が新装開館」です。


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しらとり・まさお
朝日新聞社前企画委員。1944年、愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業後、日刊工業新聞社編集局を経て、1970年に朝日新聞社編集局に入社。広島、和歌山両支局で記者をした後、大阪本社整理部員。1989年に鳥取支局長、1991年に金沢支局長、1993年に大阪企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を務める。編著書に『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』『日本海の夕陽』(いずれも東方出版)、図録『山本容子の美術遊園地』『西遊記のシルクロード 三蔵法師の道』『ヒロシマ 21世紀へのメッセージ』(いずれも朝日新聞社)、『鳥取砂丘』『鳥取建築ノート』(いずれも富士出版)などがある。

「文化」は生きる「力」だ!
発売日:2003年11月19日
定価:本体1400円+税
発行:三五館
内容:50歳を前にして企画マンを命じられた新聞人が、10年間で体感し発見した、本当の「文化」のかたち平山郁夫画伯らの文化財保護活動など幅広い「文化」のテーマを綴る。
夢しごと 三蔵法師を伝えて
発売日:2000年12月21日
定価:本体1,800円+税
発行:東方出版
内容:玄奘三蔵の心を21世紀へ伝えたいという一心で企画した展覧会。構想から閉幕に至るまで、筆者の「夢しごと」をつづったルポルタージュ。
夢をつむぐ人々
発売日:2002年7月5日
定価:本体1,500円+税
発行:東方出版
内容:新藤兼人、中野美代子、平山郁夫など、筆者が仕事を通じて出会った「よき人」たちの生き方、エピソードから、ともにつむいだ夢を振り返るエッセイ集。

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