第57回 肖像権を考える 「魔法の目」を持つ!エルスケン

パリ、1950「セルフ・ポートレート」
(※ 写真はいずれも『エルスケン写真展』から)

いまや国民皆カメラマンともいえる映像の時代です。軽くて小型のデジタルカメラに加え、カメラ機能が組み込まれた携帯電話の普及で拍車がかかりました。どこでもいつでも撮影出来るが、逆に撮影される立場からは、イベント会場や駅、公園などの公共施設、海水浴場などで、日常的に「肖像権」が脅かされているといえます。「肖像権」とは顔や姿を、許可なく撮影されたり、公表されたりしない権利です。町中にアマチュアカメラマンがあふれる世の中、国際的な写真家の作品を通じ、「肖像権」について考えてみました。

日本を撮り歩いたエルスケン

「私の主人はヤクザなんかじゃありません」。こんな抗議が写真展会場に突きつけられました。指摘された写真は、「ヤクザ─大阪・釜ケ崎」と題された一枚です。ダークスーツに山高帽をかぶった粋な男性六人が威張った風情で収まっています。抗議の女性は、モデルになった一人の未亡人で、「昔の写真だから、ほとんど気づく人もないでしょうけど、遺族としてヤクザと決めつけられるのは許せません」という言い分でした。


代表作の一つ「サンジェルマン・デ・プレの恋」

世界を旅し、街角の表情やそこに生きる人々を撮り続けたオランダ生まれの20世紀を代表する写真家エド・ファン・デル・エルスケン(1925−1990)の回顧展でのことです。写真展にはパリ、アムステルダム、アフリカのほか、東京や大阪で撮った代表作約200点が展示されていました。

写真展は大阪のデパートで開かれ、私が、主催した朝日新聞社の担当デスクでした。連絡をうけた私は、事情はともかく、会場の写真説明にあった「ヤクザ」の文字の上に白い紙を貼るように指示し、急場をしのいだのです。

この展覧会を仕立てた東京の担当者が、その日遺族に連絡を取り謝罪しました。未亡人らの話によると、子供が週刊誌の写真展案内で見つけたといいます。家族が集まった時に話題になったそうで、その時は笑い話で済んだそうです。まさかお膝下の大阪で写真展が開催されるとは思いもかけなかったようですが、会場で見つけ、訂正を申し出たとのいきさつでした。

私もその説明を受け、電話連絡し謝罪に出向きたいと申し出ました。未亡人は「主人は当時、チンピラ気取りで写真を撮らせたのでしょう。生きていたら何というか。笑い飛ばしていたかも知れません。でもヤクザと決めつけられては怒るでしょう」と、穏やかに話し、訪問するには及ばないと繰り返されました。

私はその時の電話で、会場での対応を説明し、販売している図録については、ただちに白いシールを貼ると約束しました。


大阪・釜ヶ崎、1960

エルスケンは、第二次世界大戦後のパリに住み、荒廃と貧困の中で苦悩する若者たちの姿をカメラに収めた写真集で一躍名を高めました。1950年代から60年代の写真家の旗手として、世界的に活躍しました。がんで全身を侵され、65歳で亡くなりますが、告知から死の直前までの2年間、自らを被写体に病魔との闘いを克明に撮り続けました。さらにむしばまれていく姿をビデオで撮り、「BYE(さよなら)」と名付けられたドキュメンタリーまで遺したのです。死後に日本でも放映され、見るものに衝撃を与えました。

1959年11月末から60年2月にかけ、世界一周取材の途中、日本に立ち寄って以来、日本に魅かれ10数回も来日し、細江英公さんら写真家集団VIVOのメンバーらと交流を深めました。

日本でのエルスケンは、小型のライカと広角レンズ、それに高感度の白黒フイルムを携え、夜の街の男や女など市井の人々を写し歩いたのです。エルスケンはレンズを通して日本を、そして日本人を発見しました。そんな一枚が「ヤクザ」でした。遺族が問題にしたのはキャプションのことですが、私には「肖像権」のことがとても気がかりでした。

人格権の一部としての判例


新宿・歌舞伎町、1988

私はエルスケンの一件より先、鳥取支局長の時にも一枚の写真で読者から抗議を受けた経験がありました。第二鳥取版のヤング・ミス・ミセスの欄で、若い支局記者が週末に大阪や神戸などに遊びに出かける若者を「週末都会人」として取り上げました。そのカット写真のつもりで、鳥取発バス車内の若い女性をモデルにしたのです。バスが出発直前だったこともあり、十分な説明が出来なかったそうです。しかし、この写真は「記事とは直接関係ありません」との、おことわり無しで掲載してしまったのです。

モデルになった女性から「遊びにいっている者だけではないのに、私が週末都会人のように思われ、大変迷惑しています」といった苦情の電話が寄せられました。早速お詫びに伺い、「誤解を解く必要があるなら、どこへでも出向いていきます」と平謝りしたのでした。この例だと、一歩間違えば、テレビ番組で時折り指摘される「やらせ」のそしりも免れず、肝を冷やしたのでした。

日本では「著作権」と異なり、「肖像権」について明記した法律はありません。とはいえ、これまで多くの判例によって法的に認められています。人格権の一部としての「肖像権」は、自由や幸福を追求する権利を定めた憲法13条に基づいて人格を守ろうとする主旨です。もう一つは有名人に認められている財産権としての「肖像権」で、アーティストやタレントの肖像はそれ自体、広告や商品価値を生み、公に利用する場合、許諾と使用対価の支払いが必要となります。


京都、1960

人格権としての「肖像権」をめぐる問題は、プロ、アマ問わず写真作品に多いのが実情です。新聞や雑誌などの報道でプライバシーを侵害するケースです。コンテストに応募したり、新聞や雑誌に発表する可能性のある場合は、事前に撮影や公表の許可を取っておかなければならなりません。私は抗議を受けた事例を通じ、「肖像権」への認識を新たにしました。

財産権としての「肖像権」では、2001年12月に、「週刊現代」と「フライデー」に、女優時代のヌード写真が無断で掲載されたとして、大相撲の二子山親方の元妻・藤田憲子さんが発行元の講談社に計1億円の損害賠償を求めた訴訟の判決が東京地裁でありました。裁判長は「掲載は藤田さんがかつて公表に同意した範囲を超えている」として、講談社に計550万円の支払いを命じています。裁判長は「肖像権」を認めた上で、「個人の利益を上回る報道上の必要性が認められない」と判断したのです。新聞人だった私は当時、この裁判を他山の石として受け止めるべきだと痛感したものです。

カメラマンの「魔法の目」


原宿、1960

佐渡ヶ島、1987

最近になって、私は神田の本屋街で一冊の本を見つけ購入しました。『ニッポンだった&After』(東京書籍刊)と題されたエルスケン写真集です。巻末を見ると、2000年6月8日発行となっていました。その中に、「ヤクザ」で抗議を受けた問題の一枚の写真が大きく見開きで収録されていました。そこには、この写真を撮ったコメントが撮影者エルスケンの言葉で語られていたのです。

1960年一月のある夕方、釜ケ崎を一人であるいていた。突然、チンピラが6人近づいてくるのに気づいた。あたりはかなり暗くなっていた。とっさにライカに手をやり絞りを開け、スローなシャッタースピードにセットしていた。怖いもの知らずといおうか、男たちにオランダ語で話しかけ立ち止まらせ、カメラにポーズをとってくれと頼んだ。男たちはポーズをとった。

エルスケンの写真集を見れば分かるが、彼はどこの国に行っても、どんな人とでもすぐに親しくなったようです。来日の時「遠くからでも、撮ることを許してくれる人は分かる」と、その秘訣を語っています。まさにエルスケン・マジックといえる。「ガンをつけた」と言いがかりをつけられかねない場所で、しかもカメラを構えたのにポーズさえとってくれたといいます。人間味あふれた写真家とモデルになった若者たちの気質のふれあいがあったのでしょう。

それから30年以上も経て、一枚の写真をめぐるドラマがあったのです。あの時、遺族は肖像権の「し」の言葉も吐かなかったのです。単に「ヤクザ」の言葉の削除だけで納得していただいたのでした。その答えは、写真そのものが物語っていました。

エルスケンが「オランダ語でポーズを」と頼んだ時、言葉は理解できなくても表情や誠実さが通じたのでしょう。そして遺族にとっても、写真の公開まで拒まなかったのは、同じ理由でしょう。いまパパラッチ写真やフォーカス写真が大きな社会問題になっています。エルスケンの一枚一枚の写真には、カメラマンとして優しく鋭い「魔法の目」があったように思われます。

次回は、「アンコールワット最新事情」です。


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しらとり・まさお
ジャーナリスト、朝日新聞社前企画委員。1944年、愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業後、日刊工業新聞社編集局を経て、1970年に朝日新聞社編集局に入社。広島、和歌山両支局で記者をした後、大阪本社整理部員。1989年に鳥取支局長、1991年に金沢支局長、1993年に大阪企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を務める。編著書に、『アートへの招待状』(梧桐書院)『「大人の旅」心得帖』『「文化」は生きる「力」だ』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』『日本海の夕陽』(いずれも東方出版)、図録『山本容子の美術遊園地』『西遊記のシルクロード 三蔵法師の道』『ヒロシマ 21世紀へのメッセージ』(いずれも朝日新聞社)などがある。


アートへの招待状
発売日:2005年12月20日
定価:1,800円(税込)
発行:梧桐書院
「大人の旅」心得帖
発売日:2004年12月1日
定価:本体1,300円+税
発行:三五館
「文化」は生きる「力」だ!
発売日:2003年11月19日
定価:本体1400円+税
発行:三五館
     
第一章 展覧会とその舞台裏から
第二章 美術館に行ってみよう
第三章 アーティストの心意気と支える人たち
第四章 世界の美術館と世界遺産を訪ねて

 本書を通じて白鳥さんが強調するのは「美術を主体的に受け止める」という、鑑賞者の役割の重要性である。なぜなら「どんな対象に興味を感じ、豊かな時を過ごすかは、見る者自身の心の問題だ」からである。
(木村重信・兵庫県立美術館長の序文より)
夢をつむぐ人々
発売日:2002年7月5日
定価:本体1,500円+税
発行:東方出版
夢しごと 三蔵法師を伝えて
発売日:2000年12月21日
定価:本体1,800円+税
発行:東方出版


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